🎷 9月23日生まれの偉人:ジョン・コルトレーン ~モダン・ジャズを超え、魂を奏でたサックスの巨匠~
1. 幼少期と音楽との出会い
ジョン・ウィリアム・コルトレーン(John William Coltrane, 1926–1967)は、1926年9月23日、アメリカ南部ノースカロライナ州ハムレットに生まれました。
彼がわずか12歳のとき、父をはじめ祖父母など身近な家族を相次いで亡くし、家庭の経済的・精神的な支えを失います。この苦難の少年期こそ、後に彼が「音楽を祈り」として捉える背景となったと考えられています。
彼は最初にクラリネットを手にし、その後アルトサックスへと移行。高校時代にはすでに才能を認められ、地元のバンドで演奏するようになりました。音楽は孤独な少年にとって、心を救う拠り所であり、言葉以上の表現手段となっていったのです。

2. 海軍時代と初録音
第二次世界大戦中、コルトレーンは海軍に入隊し、軍楽隊に所属しました。1946年、ハワイ駐屯時代に初めてレコーディングに参加します。これが彼の最初の録音記録であり、のちに発掘されるとファンの間で大きな話題となりました。
当時の演奏はまだ粗削りでしたが、音色にはすでに熱意と集中力が宿っており、後年の探究心あふれる姿勢を予感させます。
3. マイルス・デイヴィスとの出会い ― 飛躍の時代
1950年代半ば、コルトレーンはジャズ界の巨人 マイルス・デイヴィス に見出され、クインテットの一員として活動を始めます。ここでの演奏は「ハード・バップ」と呼ばれるスタイルの最前線であり、コルトレーンの名を一躍知らしめました。
しかし、この時期の彼は麻薬とアルコール依存に苦しみます。バンドを追放されたこともありましたが、やがて更生を決意。深い祈りと精神修養によって立ち直り、以後の音楽人生を「神への奉仕」と位置付けるようになります。
4. セロニアス・モンクと「シーツ・オブ・サウンド」
1957年、コルトレーンは天才ピアニスト セロニアス・モンク のカルテットに参加しました。モンクの複雑で自由なコード進行に挑むなかで、彼は「シーツ・オブ・サウンド(Sheets of Sound)」と呼ばれる独自の演奏スタイルを確立します。
これは、音符を洪水のように連ね、音の“カーテン”で聴衆を包み込む革新的なアプローチでした。彼の演奏は一音ごとに精神性が込められ、聴く者に圧倒的な没入感を与えました。
5. リーダーとしての躍進と代表作
1960年代に入ると、コルトレーンはリーダーとして活動を本格化させ、数々の名盤を残します。
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『Giant Steps』(1960):目まぐるしいコード進行と超絶技巧の演奏で知られる。ジャズサックス奏者の“登竜門”とされる作品。
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『My Favorite Things』(1961):ブロードウェイの曲をモーダル・ジャズとして大胆にアレンジ。ソプラノサックスでの演奏は大ヒットを記録。
これらの作品で、彼は単なるジャズ奏者から「音楽の革新者」へと進化していきました。
Giant Steps

6. 「至上の愛」――音楽を超えた祈り
1964年に録音された 『A Love Supreme(至上の愛)』 は、コルトレーンの生涯における最高傑作とされています。
この作品は4つの楽章から成る組曲で、アルバム全体が「神への感謝の祈り」として構成されました。ライナーノーツには彼自身の祈りの言葉が記され、音楽を通じた宗教的体験を提供しています。
「至上の愛」はジャズファンのみならず、クラシックやロックのリスナーにも愛され、現代に至るまで“霊的音楽”の象徴として語り継がれています。
A LOVE SUPREME

7. フリー・ジャズへの挑戦
晩年のコルトレーンは、さらに過激で実験的な方向へ進みました。コード進行や拍子の束縛を解き放ち、完全な即興による フリー・ジャズ を展開。
その演奏は混沌としたノイズのように聞こえることもあり、当時の批評家からは賛否両論を浴びました。
しかし彼にとってそれは「魂の解放」であり、音楽を通じて宇宙と一体化する試みだったのです。妻でありピアニストの アリス・コルトレーン との共演も、この精神性をさらに強めていきました。
8. 早すぎる死と永遠の影響
1967年7月17日、ジョン・コルトレーンは肝臓癌のため、わずか40歳でこの世を去りました。
しかし短い人生にもかかわらず、彼が残した音楽は後世に絶大な影響を与え続けています。マイルス・デイヴィス、オーネット・コールマン、さらにはロック界のジミ・ヘンドリックスやザ・ドアーズまでもが、コルトレーンからインスピレーションを受けたと語っています。
ニューヨークでは「聖ヨハン・コルトレーン教会」という実際の宗教団体が存在し、彼の音楽を礼拝の一部として取り入れているほどです。
9. 名言と精神性
コルトレーンはこんな言葉を残しました。
「私の音楽を通じて、人々がより幸せで、より自由で、より親しみを持てるようになることを望む。」
また、友人たちは彼を「沈黙の哲学者」と呼びました。多くを語らずとも、サックスの音色で深遠な思想を表現したからです。

まとめ
ジョン・コルトレーンは、単なるジャズ奏者にとどまらず、音楽を通じて人間の精神世界を探求した“求道者”でした。彼のサックスは祈りであり、愛であり、そして宇宙との対話でした。
その音色は半世紀以上経った今も色褪せず、聴く者に「音楽とは何か」「生きるとは何か」を問いかけ続けています。
⚡ 9月22日生まれの偉人:マイケル・ファラデー― 電気文明を築いた天才実験家
序章 9月22日の星の下に生まれた男
19世紀のイギリスは、産業革命のただ中にありました。
蒸気機関が都市を動かし、工場は次々と建ち並び、近代化の波が押し寄せる時代。その時代の空気を吸って生まれたのが マイケル・ファラデー(1791年9月22日生) です。
「人類に電気の未来を開いた人物」と呼ばれる彼ですが、その出発点は決して恵まれたものではありませんでした。
学歴も財産もなく、最初はただの製本工の見習い。
しかし、彼は自らの好奇心と努力で未来を切り開き、世界を変えていったのです。

第1章 ロンドンの片隅から
ファラデーの生まれ育った家庭は極めて貧しく、父は病弱な鍛冶職人、母は無学で字も読めませんでした。
学校教育はわずかしか受けられず、彼はほとんど独学で学問を吸収していきます。
14歳のとき、彼は製本工の見習いとして働き始めました。朝から晩まで紙と革に向かう日々。
しかし、この環境が彼にとって幸運となります。製本する本の中には化学や電気の本もあり、彼は仕事の合間にそれを読み、ノートにまとめ、時に自分で簡単な実験を試みるようになりました。
彼にとって「知識は本の中に眠る宝物」であり、それを掘り起こすことが生涯の喜びとなったのです。

第2章 運命を変えた公開講義
1812年、ファラデーは転機を迎えます。
ある顧客から 王立研究所の公開講義の入場券 を譲り受けたのです。
その講義を行っていたのが、当時イギリスで最も著名な科学者の一人、ハンフリー・デービー でした。
ファラデーは夢中で講義を聞き、詳細なノートを取りました。
その内容を美しく製本し、感謝の手紙を添えてデービーに贈ります。
この誠意と熱意がデービーの心を動かし、やがてファラデーは王立研究所の助手として採用されます。
彼の人生はここから大きく動き出したのです。

第3章 助手から科学者へ
助手となったファラデーは、薬品の調合や実験器具の準備など雑用をこなしながら、実験の本質を学んでいきました。
彼は決して大学で学んだ学者ではなく、あくまで「実験を通じて学ぶ」スタイルの研究者でした。
当時の科学界は学歴や家柄が重視される世界。
それでもファラデーは「実験という真実」を武器に、自らの居場所を築いていきました。

第4章 電気と磁気の謎を解く
電磁回転(1821年)
ファラデーは、デンマークの物理学者エルステッドが発見した「電流が磁針を動かす現象」に着目しました。
実験を重ねる中で、電流が磁石の周囲に「回転運動」を生じさせることを発見します。
これは 電動モーターの原理 そのものでした。
電磁誘導(1831年)
さらに10年後、彼は「磁石をコイルに近づけると電流が流れる」ことを発見します。
これが 電磁誘導の法則 です。
人類は初めて「電気を作る」方法を手に入れ、やがて発電機・送電システムへと発展していきました。

第5章 化学の探究者
物理だけではなく、化学でも彼は大きな成果を上げました。
これらは現代の有機化学や電気化学の基盤を築く重要な発見でした。
第6章 謙虚な教育者として
ファラデーは称号や名誉に興味を示さず、何度も爵位を辞退しました。
彼が重視したのは「知識を人々に広めること」でした。
王立研究所で始めた クリスマス・レクチャー は、子どもたちに科学を楽しく伝えるイベントとして今も続いています。
科学は学者だけのものではなく、万人に開かれたもの――その信念が彼を支えていました。
第7章 晩年と遺産
晩年のファラデーは長年の実験で神経を痛め、記憶力も衰えました。
しかし、彼の築いた理論と実験結果は、マクスウェル によって「電磁場方程式」として体系化され、20世紀の科学技術の礎となりました。
彼は1867年に75歳で亡くなります。墓碑は極めて質素で、華美な装飾はありませんでした。
科学は権威ではなく真実を追うもの――それが彼の生き方でした。
第8章 ファラデーの残したもの
今日、私たちの生活は電気にあふれています。
照明、交通、通信、インターネット――これらのすべては、ファラデーの発見を起点としています。
「見えない力」を探り続けた彼は、まさに「電気文明の扉を開いた人」なのです。

✨ 結び
マイケル・ファラデーは、
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貧しい少年から努力で道を切り拓いた象徴
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電磁気学と化学の両分野で世界を変えた科学者
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知識を独占せず、未来の人々に残した教育者
彼の存在は、科学の歴史の中でも燦然と輝き続けています。
9月19日の重大な出来事:メキシコに繰り返された地震の記憶
序章:突如として訪れた悲劇
1985年9月19日、午前7時19分。メキシコシティは、かつてない揺れに襲われました。
マグニチュード8.0、震源は太平洋沿岸ミチョアカン州沖。震源地から約350km離れていたにもかかわらず、人口1,500万を超えるメキシコシティに壊滅的被害をもたらしました。

1985年9月19日:メキシコシティ大地震
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規模:M8.0
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死者:10,000人以上(公式発表は約6,000人)
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被害:高層ビル、病院、学校の倒壊。市中心部は壊滅的打撃。
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特徴:
この地震は単なる自然災害ではなく、「社会のあり方を変えた地震」として歴史に残りました。

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2017年9月19日:32年後の悪夢
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規模:M7.1
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死者:360人以上
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被害:学校や集合住宅が倒壊、首都圏を中心に広範囲で被害。
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特徴:
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1985年の地震からちょうど32年目の同じ日に発生
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直前に全国的な防災訓練が行われていたため、多くの市民が素早く避難行動を取れた
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一方で、訓練直後の本震だったことから「悪い冗談のようだ」と多くの人が語った
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2022年9月19日:またしても“9月19日”
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規模:M7.6
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死者:少なくとも2人
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被害:西部ミチョアカン州を中心に揺れ。首都でも揺れを観測。
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特徴:
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再び「9月19日」に発生
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しかも、防災訓練を終えたわずか1時間後に地震が起きた
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被害は限定的だったが、住民に「この日には必ず何かが起きる」という恐怖心を強く刻みつけた
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偶然か必然か ― 9月19日の謎
科学的には「9月19日に大地震が集中する理由」は解明されていません。
地震はプレート運動による偶然の産物であり、特定の日付に地震が起こる必然性はないとされています。
しかし、人々の記憶と社会の意識は、数字以上の重みを持ちます。
まとめ:災害を記憶する国
「9月19日」はメキシコにとって、
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悲劇の日であると同時に、
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防災意識を高め、市民の連帯を思い出す日
となっています。
繰り返される偶然が、人々に「災害を忘れるな」という強いメッセージを残しているのです。

9月18日生まれの偉人 ― レオン・フーコー:地球の自転を証明した科学者
1.パリに生まれた一人の青年
1819年9月18日、フランスのパリで誕生したジャン・ベルナール・レオン・フーコー。
当初、彼の人生の方向性は科学ではなく医学に向けられていました。幼いころから手先が器用で観察力も鋭かった彼は、医者になることを夢見てパリ大学の医学部に進学します。
しかし、臨床実習の際に血を見て気を失ってしまうほど血に弱かったことから、医者の道を断念せざるを得ませんでした。
医学を諦めた後、フーコーが次に強く惹かれたのは「光」と「物理学」の世界でした。独学で研究を始め、光学機器の改良や顕微鏡実験に没頭する日々を送りました。この転身こそが、後に科学史に大きな足跡を残すきっかけとなったのです。

2.「地球は本当に回っているのか?」という問い
古代ギリシアの時代から、地球が自転しているという考えは存在していました。コペルニクスの地動説、ガリレオの観測、ニュートンの力学がその考えを理論的に補強していきました。
しかし、19世紀半ばまで「地球が自転していることを直接示す実験」は存在していませんでした。
この問いに挑んだのがフーコーでした。彼は「誰の目にも明らかな方法で地球の自転を見せたい」と考え、振り子を使った大胆な実験を計画します。
3.パンテオンでの歴史的実験 ― フーコーの振り子
1851年、パリ。壮麗なパンテオンのドームに、長さ67メートル、重量28キロの鉄球を吊り下げた巨大な振り子が設置されました。
観客が見守る中、静かに振り子を揺らすと、やがて床に置かれた砂の上に少しずつ異なる線を描き始めます。
振り子は本来、同じ面を往復するはずです。しかし時間が経つにつれて、その振動面はわずかに回転していきました。
この現象は「振り子が回転した」のではなく、「地球が回転している」ことを示していたのです。
フーコーは誰もが理解できる形で地球の自転を「可視化」しました。
観客はその光景に衝撃を受け、「地球は本当に動いているのだ!」と実感しました。新聞もこの実験を大々的に報じ、フーコーの名は一夜にして世界に広まりました。

4.光速を測り、ニュートンを超えた実験
フーコーの業績は振り子だけにとどまりません。彼は光の速度を測定するために独自の装置を考案しました。
回転鏡を利用して光が往復する時間を測り、従来より正確な光速の値を算出。さらに、光が水の中では空気中より遅くなることを実験で示しました。
これは当時支配的だったニュートンの「光粒子説」では説明できず、ホイヘンスの「波動説」が正しいことを裏付けました。
この成果によりフーコーは「光の実験物理学の革命児」と呼ばれるようになったのです。
5.フーコー電流と工学への影響
フーコーはまた、磁場中で金属を動かすと発生する「渦電流」を発見しました。
これは後に「フーコー電流」と呼ばれ、現在では電磁ブレーキ、新幹線の速度制御、非破壊検査など、工学や産業のあらゆる分野で応用されています。
さらに、彼は望遠鏡の改良にも貢献しました。反射鏡の精度を調べる「フーコーテスト」という方法を開発し、天文学においても重要な役割を果たしました。

6.科学者としての晩年
1862年、フーコーはついにフランス科学アカデミーの会員に選ばれました。
しかし、その後の人生は決して順風満帆ではありませんでした。持病が悪化し、研究を続ける体力を失い、1868年2月11日、48歳の若さで世を去ります。
彼の人生は短かったものの、科学に残した功績はあまりにも大きなものでした。
7.今も揺れ続ける「フーコーの振り子」
現在、世界各地の科学館や博物館には「フーコーの振り子」が設置されており、訪れる人々に地球の自転を体感させています。
東京・国立科学博物館にも常設展示があり、子どもから大人まで多くの人々がその神秘的な動きに見入ります。
フーコーの実験は「科学を目で見る」喜びを与え続け、150年以上経った今も、地球の動きを静かに証明しているのです。

8.まとめ ― 実験で世界を変えた科学者
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レオン・フーコーは**「振り子で地球の自転を証明した男」**
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光速の精密測定、波動説の立証、望遠鏡の改良、フーコー電流の発見など、幅広い業績を残した
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48歳という短い生涯ながら、その発見は科学と工学の発展に永遠の影響を与え続けている
彼の生涯は、「難解な理論を、誰もが実感できる形にする」科学者の理想を体現していました。
フーコーの名は、これからも世界中の振り子とともに揺れ続けることでしょう。

🎨 奇想の画家― ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の生涯と幻想世界
いつもは〇月〇日生まれ、もしくはその日に起こった重大な出来事のブログ記事を書いていますが、今回はヒエロニムス・ボスを紹介します。ヒエロニムス・ボスは誕生日が9月16日の説がありますが、正確ではありません。
私がこの画家を知ったのは、私の一番大好きな本の主人公と同じ名前を持つからでした。マイクルコナリーのHieronymus Boschです。そのつながりで興味を持ちました。
1. はじめに
美術史の中で「常識を超えた想像力」と言えば、必ず名前が挙がる画家がいます。
15世紀末から16世紀初頭に活躍したオランダの画家、**ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch, 1450年頃 – 1516年)**です。
彼の描く絵は、悪魔や奇怪な生き物、人間の欲望と罰が渦巻き、まるで悪夢をそのままキャンバスに定着させたかのよう。シュルレアリスムの画家ダリやマグリットが登場する数百年前に、ボスはすでに「幻想と潜在意識の絵画」を描いていました。

2. 生涯の概要 ― “ボス”という名前の由来
「ボス」という通称は、出身地スヘルトーヘンボスに由来します。つまり彼の芸術家名は「ヒエロニムス・ボス=ボス出身のヒエロニムス」。まさに地元を背負った芸術家でした。
3. 謎に包まれた人物像
ボスの生涯については驚くほど資料が少なく、どのように絵画技法を学んだのかも明らかではありません。ただし一家は代々画家の家系で、自然と絵筆を握る環境にあったと考えられます。
彼は生涯のほとんどを生地で過ごし、そこから外に出ることはほとんどなかったとされます。にもかかわらず、彼の絵は国際的に高く評価され、スペイン王室コレクションにも収められました。
4. 代表作とその衝撃
《快楽の園》
ボスの代名詞ともいえる三連祭壇画。
中央には裸の人々が戯れ、巨大な果実に乗り、奇妙な動物と共に遊ぶ幻想的な世界。
左翼は「楽園」、右翼は「地獄」、中央は「人間の欲望」を描き、まるで人類史そのものを寓意的に表現しています。
👂 有名なエピソードとして、右翼の地獄部分に「お尻に楽譜が書かれた人物」が描かれており、近年研究者が実際にその旋律を演奏したことで話題になりました。

《最後の審判》
天国と地獄の行方を描いた作品。悪魔や怪物が人間を苦しめる光景は、ボスならではの独創的イメージに満ちています。
宗教的なテーマでありながら、あまりに奇抜な想像力により、人々は恐怖と魅了の入り混じった感情を抱きました。
ヒエロニムス・ボス Hieronymus Bosch 「最後の審判 Last Judgement -Triptych. Centre panel.」 額装アート作品
《干草車の祭壇画》
「干草(=世俗の富や欲望)」を奪い合う人間たちを描いた作品。
王や聖職者も庶民も一様に干草を奪い合い、結局は地獄へと導かれる姿が描かれています。
これは社会全体を批判する寓意画であり、当時の人々に「権力者も結局は欲に負ける」と強烈な印象を残しました。

《愚者の石の切除》
中世に信じられていた「頭に石があると愚かになる」という俗説を題材にした作品。
医師が患者の頭から石を取り出すという場面を、皮肉たっぷりに描いています。
ここには「人間の愚かさ」と「偽医者への風刺」が込められているとされます。

6. ボスの宗教団体との関わり
ボスは「聖母マリア兄弟団」という宗教的組織の一員でした。
この団体は慈善活動や宗教儀式を行う団体で、裕福な市民や貴族も多く参加していました。
彼は団体からの依頼を通じて祭壇画を制作し、また団体の支援を得て活動しました。
そのため彼の作品は「単なる奇想」ではなく、当時の人々に向けた道徳的メッセージを担っていたのです。
7. 後世への影響
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16世紀スペイン:ボスの作品はスペイン王フェリペ2世が熱烈に収集し、王室の修道院エル・エスコリアルに多く保管されました。
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現代文化:ボスの怪物たちはゲームや映画のデザインにもしばしば引用され、「ファンタジーの源流」として評価されています。
8. ボスにまつわるエピソード
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地獄の楽譜事件
《快楽の園》の地獄部分で、お尻に楽譜を刻まれた人物が描かれていることが発見されました。音楽家がその譜面を演奏すると、奇妙で不協和音的な旋律となり、「ボスは音楽で地獄の音を描こうとしたのではないか」と推測されています。 -
スペイン王室の熱狂的収集
フェリペ2世はボスの作品に魅了され、自身の瞑想用の部屋に彼の作品を並べたと言われます。ボスの絵を「罪への警告」として信仰生活に用いたのです。 -
「奇想の画家」という評価
ボスは同時代の他の画家から「奇怪な幻想を描く人物」と評されましたが、決して嘲笑ではなく、「常人には描けない世界を具現化する芸術家」として尊敬もされていました。
9. 死とその後
1516年に故郷で死去。彼の死は地元でも大きな出来事として記録されており、葬儀は盛大に行われました。
死後500年以上が経った今も、彼の作品は「夢と悪夢の境界を描いた画家」として美術史上に燦然と輝いています。
【9月13日生まれの偉人】ロアルド・ダール ― 世界中の子どもたちを魅了した物語の魔術師
1. 幼少期と青年時代 ― 厳しい環境が生んだ想像力
ロアルド・ダール(Roald Dahl, 1916–1990)は、1916年9月13日、イギリス領ウェールズのカーディフ近郊ランダフに生まれました。両親はノルウェーからの移民で、家庭ではノルウェー語が使われ、北欧文化に親しんで育ちました。しかし3歳のとき父親を亡くし、母の手一つで育てられます。この幼少期の喪失体験は、後の作品に見られる「孤独な子どもが困難を乗り越える」というテーマにつながっていきました。
寄宿学校に入学したダールは、そこで理不尽な体罰や冷酷な教師を目の当たりにします。当時の記録によれば、生徒に対する体罰は日常的で、食堂の食事も劣悪でした。少年ダールはそうした不条理を心に刻み、後に『マチルダ』や『魔女がいっぱい』で「権威に挑む子ども」というキャラクターを描く原点となったのです。

2. 冒険と戦争体験 ― 作家の土壌を育む
青年期になると冒険心に駆られ、石油会社シェルに就職してアフリカへ赴任。広大な自然や野生動物との出会いは、彼の想像力を刺激しました。
第二次世界大戦が始まると、ロイヤル・エア・フォース(RAF)に志願し、戦闘機パイロットとして中東やギリシャの空を飛びました。任務中に墜落事故を起こし、頭蓋骨骨折や鼻の損傷を負う重傷を負いましたが、奇跡的に生還。この体験はのちに自伝的小説『Going Solo』や子ども向け作品における“冒険と生死の境目”の描写に反映されています。

3. 作家としての出発 ― ブラックユーモアの短編作家
戦後、アメリカに渡ったダールは外交官的な立場で活動するかたわら、文筆業を始めます。最初の成功は大人向け短編小説でした。『あなたに似た人(Someone Like You)』や『キス・キス(Kiss Kiss)』などに収められた短編は、日常の裏側に潜む人間の欲望や不条理を描き、最後に意外な結末が待ち受ける「オチのある物語」として人気を博しました。これらの作品は後にテレビドラマ『ロアルド・ダール劇場』として映像化され、彼の名を広く知らしめました。
ここで培われたブラックユーモアと毒の効いた語り口は、後の児童文学作品にもそのまま生きています。ダールは「子どもにこそ、真実と皮肉を隠さず語るべきだ」と考えていたのです。
あなたに似た人〔新訳版〕 I 〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 タ 1-9)
キス・キス〔新訳版〕
4. 児童文学への転身 ― 世界的なベストセラー作家へ
1964年に出版された『チョコレート工場の秘密(Charlie and the Chocolate Factory)』は、ロアルド・ダールを世界的な児童文学作家に押し上げました。貧しい少年チャーリーが、風変わりな工場主ウィリー・ウォンカのチョコレート工場で数々の冒険を繰り広げる物語は、子どもたちの夢を膨らませると同時に、強欲や怠惰といった人間の欠点を風刺しました。
その後も、『BFG』『魔女がいっぱい』『マチルダ』といった作品を発表。どの作品も、常識を覆す大胆な設定と、子どもの勇気や知恵が大人の世界を打ち破る展開で、多くの読者を魅了しました。
チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)
マチルダは小さな大天才 (ロアルド・ダールコレクション 16)
5. 映画・舞台への広がり ― 永遠に生きる物語
ロアルド・ダールの物語は映像化に恵まれています。
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**『チョコレート工場の秘密』**は1971年のジーン・ワイルダー主演版、2005年のジョニー・デップ主演版が有名で、2023年には前日譚『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』が公開されました。
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**『BFG』**はスティーヴン・スピルバーグ監督によって映画化され、友情と冒険の物語として多くの人の心を打ちました。
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**『マチルダ』**は映画だけでなくミュージカルとしても上演され、ロンドンやブロードウェイで大ヒットを記録しました。
さらに意外な事実として、ダール自身が映画脚本を手がけたこともあります。代表的なのは映画『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』で、彼が脚本を担当していました。児童文学だけでなく、スパイ映画の脚本家としても才能を発揮したのです。
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6. 家族と晩年 ― 波乱の人生
私生活では、ハリウッド女優パトリシア・ニールと結婚し、5人の子どもをもうけました。長女の事故や妻の病気など、家庭には数々の試練がありましたが、ダールは支え続けました。この経験から、障害を持つ子どもや医療支援のための慈善活動にも力を注ぐようになります。
1990年11月23日、血液疾患のため74歳でこの世を去りました。しかし、彼の作品は絶えることなく読み継がれています。死後、彼の名を冠した「ロアルド・ダール財団」が設立され、子どもの教育や医療支援に活用されています。
7. ロアルド・ダール・デー ― 世界が祝う作家の誕生日
毎年9月13日は「ロアルド・ダール・デー」とされ、イギリスを中心に世界中でイベントが開催されます。子どもたちは登場人物に扮して学校に登校したり、読み聞かせや演劇が行われたりします。ダールの物語は、ただの本にとどまらず、文化として人々の生活に根付いているのです。
8. まとめ ― 子どもの心を解放する文学
ロアルド・ダールの作品は、決して「子ども向けにやさしい」だけの物語ではありません。むしろ、現実の厳しさや大人社会の矛盾を、ユーモラスで残酷なまでに正直な筆致で描きます。だからこそ、子どもたちは自分の味方になってくれる作家として彼を愛し、大人たちは彼の物語に社会風刺を読み取るのです。
「子どもは大人以上に真実を知る権利がある」――それがロアルド・ダールの信念でした。
彼が残した物語は、これからも世界中の子どもたちに勇気と想像力を与え続けるでしょう。
9月8日生まれの偉人:アントニン・ドヴォルザーク ― 《新世界より》で世界を魅了した作曲家
第1章:ボヘミアの村に生まれて
アントニン・ドヴォルザークは1841年9月8日、ボヘミア地方のネルホヴィツェという小さな村に生を受けました。父フランチシェクは肉屋兼居酒屋を営んでおり、決して裕福な家庭ではありませんでした。しかし、家には常に音楽がありました。父はツィターを弾き、村人たちは結婚式や祭りで民族音楽を奏でる――そんな環境の中で、幼いアントニンは自然と旋律を覚えていきます。
幼少期のドヴォルザークは、家の手伝いをしながらヴァイオリンを習得し、地域の楽団で演奏するまでに成長しました。やがて才能を見込まれ、プラハへ出て本格的に音楽を学ぶことになります。プラハ音楽院ではオルガンを専攻しましたが、当時から作曲の素養が際立っており、教師たちは「新しい世代の作曲家が現れた」と噂しました。

第2章:貧しさと努力の青春時代
卒業後のドヴォルザークの生活は決して華やかではありませんでした。音楽院を出たからといって、すぐに作曲で生計が立てられるわけではなかったのです。彼は劇場オーケストラのヴィオラ奏者として雇われ、夜はオペラや舞台音楽を演奏し、昼は作曲に励むという生活を続けました。
この時代、彼はベートーヴェンやワーグナー、さらにはリストの音楽にも触れ、多様なスタイルを吸収しました。とはいえ、彼自身の作風はまだ固まっておらず、試行錯誤の連続でした。それでも彼は、ボヘミアの民族舞曲や民謡のリズムを織り交ぜ、自分らしい音楽を模索していきます。
貧しい生活の中で、彼を支えたのは信仰と音楽への情熱でした。敬虔なカトリックであったドヴォルザークは、教会でオルガンを弾くことで糧を得るとともに、祈りの中でインスピレーションを受けることも多かったと伝えられています。
第3章:ブラームスとの運命的な出会い
大きな転機が訪れたのは1870年代。生活の苦しさから政府の奨学金に応募したドヴォルザークの作品が、選考委員の一人であったヨハネス・ブラームスの目に留まりました。ブラームスはその楽譜を見て「この男には特別な才能がある」と確信し、友人の出版社ジムロックに強く推薦します。
これにより出版された「モラヴィア二重唱曲」「スラヴ舞曲集」はヨーロッパ中で大評判となり、一躍名声を得ることになりました。特に「スラヴ舞曲」は、軽快なリズムと民族色あふれる旋律で人々を魅了し、「ボヘミアからやってきた新しい音楽」として熱狂的に迎えられました。
ブラームスとの出会いがなければ、ドヴォルザークは長く無名のまま埋もれていたかもしれません。この出来事は、彼の人生を決定的に変えた瞬間でした。

第4章:アメリカと《新世界より》
1892年、ドヴォルザークはニューヨークに新設された国民音楽院(現ジュリアード音楽院)の院長に招聘されました。当時のアメリカは「自国のクラシック音楽」を模索しており、民族的な音楽を得意とするドヴォルザークに白羽の矢が立ったのです。
アメリカ滞在中、彼は黒人霊歌や先住民の旋律に触れ、「これこそがアメリカ音楽の根源である」と確信します。その影響を受けて生まれたのが、交響曲第9番《新世界より》でした。
この曲は、ニューヨーク・フィルによって1893年に初演されると、聴衆を熱狂させました。第2楽章の「家路の歌」として知られる旋律は人々の心を捉え、やがて世界中で愛される名曲となりました。ドヴォルザークは「新しい世界で出会った音楽の魂を形にした」と語っています。

第5章:帰郷と民族音楽の探求
アメリカでの成功を収めたドヴォルザークは、数年後に故郷チェコへ戻りました。晩年は故郷の自然と民族文化に深く根ざした作品を数多く生み出します。オペラ《ルサルカ》はその代表作で、水の精ルサルカの悲恋を描いた物語はチェコ国民に愛され、現在もプラハ国立歌劇場の定番演目となっています。
また「スラヴ舞曲」や「チェコ組曲」など、民族的な色彩を帯びた作品を通じて、自国の音楽を国際舞台へと押し上げました。彼は民族的要素とクラシックの普遍的様式を見事に融合させ、後世の作曲家たちに大きな影響を与えました。

第6章:晩年の姿と遺産
1904年、ドヴォルザークはプラハで62歳の生涯を閉じました。その葬儀にはチェコ全土から人々が集まり、国民的英雄の死を悼みました。彼の墓はプラハのヴィシェフラド墓地にあり、今も多くの人々が訪れます。
ドヴォルザークの音楽はクラシックの愛好家にとどまらず、広く一般に浸透しました。日本の学校教育で歌われる「家路」や、映画・テレビで使用される旋律は、彼の音楽がいかに普遍的な魅力を持つかを示しています。
第7章:ドヴォルザークの魅力を今に伝える
ドヴォルザークの魅力は「民族性」と「普遍性」の調和にあります。彼は故郷の歌や踊りを愛し、それをクラシックの形式に取り入れることで、世界中の人々が共感できる音楽へと昇華させました。
彼の音楽には、故郷ボヘミアの田園風景、教会での祈り、そして新世界で出会った異国の旋律が共存しています。それはまさに「音楽は国境を越える」ということを証明しているのです。





