【9月3日生まれの偉人】フェルディナント・ポルシェ ― ビートルとポルシェを生んだ天才技術者
第1章:田舎の少年から「機械の天才」へ
1875年9月3日、フェルディナント・ポルシェはオーストリア=ハンガリー帝国領マーファースドルフ(現チェコ)に生まれました。父アントンは質素な錠前職人でしたが、少年フェルディナントは父の工房で金属や工具に囲まれて育ち、自然と機械に魅了されていきます。
彼は学校教育を十分に受けられなかったにもかかわらず、独学で電気工学の知識を身につけました。16歳で家に発電機を設置し、ランプに灯りをともしたエピソードは、彼の類まれなる才能を示す象徴的な出来事です。村人たちは「フェルディナントは魔法で光を作った」と噂したほどでした。

第2章:ローナー社と「電気自動車」という先駆
19世紀末、自動車産業はまだ黎明期。馬車からエンジン車へと移行し始めた時代に、ポルシェはウィーンの「ローナー社」に入社しました。
1898年、彼が発明したのが**「ローナー・ポルシェ」。これは車輪に電動モーターを組み込み、バッテリーで走る車両で、後にガソリンエンジンと組み合わせてハイブリッドカー**としても走行可能でした。
現代ではトヨタ・プリウスやテスラの電気自動車が注目を集めていますが、ポルシェはすでに120年以上前にその発想にたどり着いていたのです。

第3章:自動車業界での地位確立
その後、ポルシェは自動車メーカー「アウストロ=ダイムラー」や「ダイムラー=ベンツ」で技術責任者を務め、数々の名車を世に送り出しました。彼が設計したスポーツカーはレースで輝かしい成果を収め、ポルシェの名前は自動車技術者として国際的に知られるようになります。
一方で、彼の設計思想は常に「シンプルで効率的」。ただ豪華さを追うのではなく、誰もが安心して使える信頼性を重視したのが特徴でした。これは後に「国民車」の開発へと直結していきます。

第4章:ヒトラーとの出会いと「国民車」プロジェクト
1930年代、世界恐慌から回復しつつあったドイツで、アドルフ・ヒトラーは「すべての国民が自家用車を持てる時代を作る」と宣言しました。そこで白羽の矢が立ったのがポルシェです。
彼が提示した設計思想は以下の通り。
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大人2人と子ども2人が乗れること
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時速100kmで走れること
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燃費は1リッターで14km以上
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価格は労働者の数か月分の給料で買えること
これを具現化したのが フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル) です。
丸みを帯びた愛らしいデザインは人々に親しまれ、戦後には世界中で大ヒット。累計生産台数は2,100万台を超え、自動車史上最も成功したモデルの一つとなりました。

第5章:戦争と影の部分
しかしポルシェの名声には、暗い影もあります。
彼はナチス政権下で軍用車両や戦車の開発にも関わりました。特に「ティーガー戦車」は連合軍に恐れられた存在でした。
戦後、彼はナチス協力者として逮捕され、約20か月間収監されます。ニュルンベルク裁判では死刑こそ免れましたが、人生の汚点となりました。
それでも釈放後、彼は再び自動車開発の道に戻り、名誉の回復に努めます。

第6章:ポルシェ社とスポーツカーの誕生
1948年、息子フェリー・ポルシェが中心となって「ポルシェ356」が誕生しました。軽量かつスポーティーなこの車は大成功を収め、ポルシェのブランドを確立。
そして1964年には、伝説的モデル ポルシェ911 が登場します。
独特のリアエンジン・リア駆動レイアウトは、スポーツカーの概念を一変させ、半世紀以上にわたり進化を続けています。これこそ、フェルディナント・ポルシェが残した最大の遺産でした。


第7章:晩年とその後
ポルシェは1951年、75歳で世を去りました。晩年は健康を害しつつも、自動車に情熱を注ぎ続け、家族に囲まれて亡くなったと伝えられています。
その名を冠した「ポルシェ」は今なお世界の自動車文化を牽引し、サーキットから街中まで、人々の憧れの的であり続けています。